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甲子園の「甲子」って何?球場が60年に一度の年に生まれた話

甲子園の「甲子」は、学校名でも創業者名でもありません。球場が完成した1924年の干支です。十干と十二支、60年周期、開場から12日後の大会まで公式資料でたどります。

高校野球の試合が行われる阪神甲子園球場のグラウンドと観客席

「甲子園」の甲子は、甲子園球場がある町に昔から付いていた地名ではない。球場が完成した1924年の干支が「甲子」だったため、周辺一帯と球場に付けられた名前だ。

読みは「こうし」。甲子に庭園の「園」を付けて甲子園になった。野球の聖地としてあまりに定着した結果、いまでは高校野球の大会そのものを「甲子園」と呼ぶ。元はカレンダー由来の名前なのに、最終的には季節を知らせる側へ回っている。

甲子は十二支だけでは説明できない

干支と聞くと、子・丑・寅から始まる12種類の動物を思い浮かべる。ただ、本来の干支は「十干」と「十二支」の組み合わせだ。

国立国会図書館の「日本の暦」によると、十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類。十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類である。年賀状で活躍する動物チームは、暦の片側だけだった。

十干と十二支を一つずつ順番に組み合わせると、甲子、乙丑、丙寅と進み、60通りで一巡する。10と12を掛けた120通りではなく、二つの列を同時に一つずつ進めるため、両方が最初へ戻る最小公倍数の60で元に戻る。

60歳を「還暦」と呼ぶのもこのためだ。生まれた年の干支へ60年後に還る。赤いちゃんちゃんこには、暦を一周して再スタートする意味がある。甲子園の名前を調べていたら、還暦祝いまで同じ路線に乗ってきた。

1924年は60通りの先頭「甲子」だった

甲は十干の最初、子は十二支の最初。その二つが重なる甲子は、六十干支の1番目にあたる。読み方は「こうし」「かっし」「きのえね」があり、甲子園では「こうし」が使われた。

阪神甲子園球場の公式サイトは、球場が完成した1924年が、十干と十二支それぞれの最初である甲と子が合わさる縁起のよい年だったため、付近一帯を「甲子園」、野球場を「甲子園大運動場」と名付けたと説明している。

つまり「甲子園という町に球場を建てた」のではなく、縁起のよい甲子の年にできた大運動場が、周辺の呼び名まで作った。巨大施設が住所へ名前をもらうのではなく、住所側へ名前を配った形である。

球場は甲子の年に間に合う速度で造られた

阪神甲子園球場100周年記念サイトの年表では、球場建設の決定が1923年11月28日、起工式が1924年3月11日、竣工式が同年8月1日となっている。起工から完成まで5カ月に満たない。甲子の年をのんびりしていると、次は60年後である。工事側にその締め切りがあったと公式資料が述べているわけではないが、完成の速さは目を引く。

建設地は、氾濫を繰り返していた武庫川下流の枝川と申川を改修し、廃川となった土地だった。阪神電気鉄道がその土地を買い取り、球場を建設した。グラウンドの土は人が運び込み、牛にローラーを引かせてならしたという。現在の整備されたグラウンドからは想像しにくいが、初代グラウンドキーパーには人間だけでなく牛もいた。

開場日の8月1日には、午前7時から関係者1000人を招いた竣工式が行われた。そのあと、阪神間の小学校から集まった2500人による学童体育大会が開催されている。完成初日の主役は、プロ野球選手でも高校球児でもなく、小学生だった。

高校野球が来たのは開場から12日後

甲子園球場で初めて全国中等学校優勝野球大会、現在の夏の全国高校野球選手権にあたる大会が開かれたのは、1924年8月13日。竣工式からわずか12日後だった。

球場公式年表によれば、この大会は高校野球で初めて入場料を取った大会でもあり、カレーライスや弁当も販売された。新球場は開場直後から、試合、観客、食事という現在につながる組み合わせを一気にそろえている。客席でカレーを食べる文化は、かなり早い段階からベンチ入りしていた。

開場時の球場は、内野に鉄筋コンクリート造りのメインスタンド、外野に築堤式の木造スタンドがあり、計5万人分の観覧席を備えていた。完成した年の冬には、打ち放しのコンクリート壁が殺風景だったためツタが植えられた。いまや象徴になったツタは、最初から歴史の風格を演出するためというより、壁が少々さびしかったので追加された衣装だった。

あの黒い土も、最初から決まっていたわけではない

球場建設で特に神経を使ったのが、グラウンドの土だった。阪神間はもともと白砂青松の土地で、土も白っぽく、白球が見えにくかったという。そこで各地から土を取り寄せ、熊内の黒土と淡路島の赤土を混ぜ、粘りや色を試した。

担当者は実際に走り、滑り込みまでして硬さと色合いを確かめた。現在は黒土と白砂の配合を、季節や天候などに応じてグラウンドキーパーが調整している。高校球児が持ち帰る「甲子園の土」は、たまたまそこにあった土をそのまま敷いたものではなく、球を見やすく、プレーしやすくする実験の積み重ねでもある。

名前は60年に一度の暦から、土は見やすさと滑りやすさの実地試験から生まれた。縁起だけで完成した球場ではない。甲子の年という派手な看板の下で、担当者はかなり地道に地面と相談していた。

「アルプス」の次に「ヒマラヤ」もあった

開場後、1929年に外野スタンドの一部が鉄筋コンクリート造りへ改修され、のちに「アルプススタンド」と呼ばれるようになった。さらに1936年、外野スタンドを拡張した際には、その名前になぞらえて「ヒマラヤスタンド」と命名された。

ところがヒマラヤの名は定着せず、やがて使われなくなった。甲子園では、暦から取った名前は100年以上残り、世界最高峰級の名前はベンチ外になった。名称は大きければ勝てる、という競技ではないらしい。

次の甲子は2044年

甲子は60年ごとに巡る。1924年の次は1984年、その次は2044年だ。球場は2024年8月1日に開場100周年を迎えたが、100は60の倍数ではないので、その年は甲子へ戻っていない。

最初の一周後にあたる1984年には、球場のスコアボードが三代目となり、手書きから電光掲示方式へ変わった。球場公式サイトは改修と甲子の巡りを結び付けてはいないが、名前の由来となった干支が一周した年に、得点表示も新しい時代へ入ったことになる。初代の書体を思わせる独特の明朝体は、電光化後も受け継がれた。

甲子園球場が生まれた年と同じ甲子を再び迎えるのは、開場120周年の2044年になる。100周年と干支の一周は、きりのよさの基準が違う。人間は100で祝い、暦は60で戻る。どちらも譲る気はなさそうだ。

甲子園という三文字には、球場、地名、高校野球の大会、全国大会へ進むことの比喩まで詰め込まれている。その出発点は、1924年が六十干支の先頭である甲子だったという、きわめて暦らしい事実だった。

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